まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

6月8日(土)講演会 名勝金沢八景の要「洲崎」の歴史③

おはようございます。たまちょです。

長い前振りを書いてしまいました。やっと本題?にはいります。

第一期改変期(17世紀後半・江戸時代)

10瀬戸の内海と呼ばれる入江が見られる新田開発前の絵図

永島祐伯が目を付けたのはかなりの浅瀬となった瀬戸の内海でした。手始めに君が崎周辺の走川に新田を造作しました。

 以下永島(のちに永嶋)家と新田開発の歴史を見てみましょう。新田開発について非常にコンパクトにまとめられている論考としまして坂手久美子氏による『金沢八景をめぐる景観環境史』があります。以下参考文献として一部転記させていただきます。

 『金沢では17世紀末頃から新田開発が行われた。開発の先導は切ったのは江戸の湯島聖堂の儒官・永島裕伯であった。裕伯の父・永島徳元は京で医業をしていた両親の跡を継ぎつつ、江戸の将軍家の重臣の家を出入りし往診などもしていたとみられる(永島, 2015)。徳元は諸大名から藩医として仕えるよう懇請されてき たが、あくまで自立した医者として士官を固辞してきた。幼年から懇意にしていた酒井忠清はとくに思い入れが深く、1663~1664(寛文3~4)年の頃、還暦を迎えた徳元の隠居地として、領地に近い六浦近郊の地の提供を推挙した。これを快く受けた徳元は裕伯を連れ武州金沢の地を訪れ、野島山の麓にその居を定めた(永島, 2015)。徳元は金沢の荒れ地の状況と近在の百姓たちとの交流を通じて、忠清への報恩のため、周辺地の開拓と新田造成の意思を伝えた。これを実行したのが儒官として仕えていた息子・裕伯であった。果たして1664(寛文4)年、裕伯は士官を捨てて忠清より与えられた金沢の地に老父・徳元と共に入り、同地での父の新田開発の意向を受け継ぎ、実行に移す。裕伯40歳の頃のことである(永島, 2015)。 1666(寛文6)年前後のこと、忠清は当時の金沢の領主久世広之に了解を取り、いよいよ新田開発は開始された。最初に着手されたのは走川(現在の寺前一丁目の一部)と平潟湾の一部であった。土地の選択にあたっては、名主か有力な百姓の助言があったと永島 (2015)は指摘している(「裕伯金沢に住し、初め近隣地船越に於いて新田を拓き、ついでその地鹹土多きを見て平潟湾及び走川の二所を相して開発し」)。船越とは追浜から南下した長浦港の沿岸にある村だが、地理的に野島山に構えた居宅に近い走川・平潟の開発を優先していった(永島, 2015)。こうして永島裕伯が最初に開拓した新田は彼の号をとって「泥亀新田」と総称され、1668(寛文8)年に完成する。なお、本稿では走川新田および平潟新田 を「泥亀古新田」と総称する。 泥亀古新田完成から12年後の1680(延宝8)年、台風によって走川・平潟の新田の二汐除堤が破壊された。しかし、裕伯以下一族の健闘の結果短期で修復し、当地での地盤を着実に築いていった。その後の新田の開拓は、裕伯の孫にあたる金七郎正仁に委ねられた。 1703(元禄16)年、房総半島南部、相模湾を含む相模トラフ沿いの大地震(元禄関東大地震) が発生し、江戸湾口から乙舳・野島浦を越えて平潟湾を襲った津波(*3~4mとされている。浦賀は4~5mとされている)により、再び泥亀古新田は壊滅状態となった。元禄地震から4年後の1707(宝永4)年、東海・関西・四国・九州を席巻した宝永大地震が発生。余震が続くさなかわずか1カ月後には富士山が噴火し、季節風にのって金沢の地まで火山灰が降り注ぎ、多くの被害が発生した。永島家の四代目金七郎と五代目元義の手によって泥亀新田の復興に力が注がれたが、その生計の基盤となったのは平潟湾(*この名称は昭和になってから用いられている)で作られる塩の収穫であった。平潟湾での塩業については中世から記録がある。金沢周辺(*二つに入江に隣接する)の村々はその生活のある程度を塩生産へ依存しており、『新編武蔵風土記稿』によると、とくに寺前村や町屋村などは塩焼き・薪伐を「生活の糧」としていた(金沢区制五十周年記念事業実行委員会、2001)。裕伯の新田開発の際には地元の有力地主や百姓など、海に面した地理的条件や昔からの経験に即した教示・指導によって、米生産よりむしろ製塩業を主眼とした開発が行われた(永島, 2015)。 金七郎・元義の死後、泥亀古新田再興および内川入江の干拓計画は元義の後妻の子、嗣子 豊亀と弟成郷に委ねられた。彼らの金沢の新田開発推進は、裕伯の血筋の交代の節目ともなった。彼らは1743(寛保3)に年塩除堤の普請(修理)、1766(明和3)年に石垣の普請を行った。さらに、大雨による防潮堤の決壊から再興を果たした吉田新田(現在の横浜市中区伊勢佐木町界隈)の資料や当時の最先端の土木・工学技術の情報を集結し、新田開発および水門の設計計画書を提出した。こうして1779(安永8)年、ようやく内川入江の干拓が開始され、7年の歳月をかけて完成した。この新田は1785(天明5)年、「金沢入江新田」と命名された。ところが翌年の7月、関東全域を襲った暴風雨による洪水で金沢入江新田が冠水、「数年の丹精一朝水泡に帰して」(神奈川県立金沢文庫, 1960)しまった。ようやく水の引いた翌年1787(天明7)年から、金沢入江新田の復興計画が始まる(永島, 2015)。 1791(寛政3)年、江戸湾を直撃上陸した台風による高潮で入江水門を破壊、新田囲い・塩除堤などを流出し、もはや再興の策もないほどの壊滅状態となった。たて続けにやってきた洪水・台風の被害は広範囲におよび、地主・百姓に至るまで苦難の時代が続いた。1795 (寛政5)年、成郷が死去。跡を継いだのは段右衛門道賢であった。しかし、1805(文化 2)年道賢が亡くなり、弟・嘉十郎が泥亀新田・金沢入江新田の名主・地主として泥亀永島9代を継いだ。嘉十郎の子・段右衛門忠篤の時代、待望の新田再開発の機会が訪れる。 ところが坂本村の故障(異議)申し立てにより、1845(弘化2)年3月、忠篤は江戸の幕府・勘定奉行に訴えを起こした。訴訟は2年におよび、貴重な時間を割いた忠篤は一気に再開発工事に着手するが、その直後、瀬戸明神3代目神主・千葉主殿介胤通により再び故障を申し立てられる。結局、瀬戸明神の境内の一部の姫小島を永久借地とすることで合意し、1849(嘉永2)年、金沢入江新田は再建された。同時に入江新田の東北端に位置する走川新田も整った。さらに1851(嘉永4)年、平潟新田を整備し野島浦側へと新塩場を拡張した。こうして長きにわたる泥亀永島家の新田開発はようやく安定し、1853(嘉永6) 年に新たな割付状が出されてここの泥亀新田は完成した(永島, 2015)。』(『金沢八景をめぐる景観環境史』坂手 久美子 東京大学大学院新領域創成科学研究科 社会文化環境学専攻 2016 年度 修士論文より抜粋 *は筆者加筆)

9瀬戸橋の北側に堤が設けられ、姫小島脇に水門が見られる絵図

 新田開発着手(1666年)から泥亀新田完成(1853年)まで約180年かけて大規模な土地改変が行われたわけです。その間でも観光地「金沢八景」の人気は衰えることなく金沢八景の浮世絵も摺り続けられていました。入江新田工事において新たに造作された構造物は瀬戸の入海にあった姫小島を中心に洲崎、瀬戸をつなぐ塩除け堤と二つの水門でした。しかし、干拓された新田は米作に適さず、新田開発によるコメの増産の夢はかなえられませんでした。

 明治期になっても観光地としての金沢八景は衰えることのない人気を誇っていました。多くの政治家、実業家、歌人、文人が富岡を中心に別荘を構え、中でも内閣総理大臣を務めた伊藤博文は金沢の地を気に入り、大日本帝国憲法の草案作りにこの地を使っていました(当時宿泊していた洲崎東屋に泥棒が入り、草案の入ったカバンごと盗まれるという事件が発生したため、夏島の別荘へ拠点を移した)。その後野島に別荘を建築しています。

 実業家の中では大橋新太郎氏が、称名寺隣に別荘を設け須磨子夫人を住まわせていました。大正5年には永島家より入江新田の土地が大橋氏に買い取られたため「大橋新田」と呼ばれた時期もありました。

今日もここまで読んでいただきありがとうございました。

次回 第二変革期へ続きます。

コメント

コメントを投稿

  • 名前

  • メールアドレス

  • URL:

  • コメント: