まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

6月8日(土)講演会 名勝金沢八景の要「洲崎」の歴史④

こんにちは。たまちょです。

 高校の同級生から、タイトルの6月8日は日曜日ではなく土曜日じゃない?とご指摘をいただき、修正することができました。ありがとうございました。また、ブログを読んでもらって感激です。これからもよろしくお願いいたします。

第二変革期(明治・大正・昭和前期)

001震災直後の洲崎(奥が龍華寺)

 明治期も終盤を迎えると二つの戦役を経て軍事拠点の必要性が増してきました。ここ金沢の地は三方山に囲まれていて秘匿性の高いところが評価?され、大正12年9月1日の関東大震災では、平潟湾東岸部が1メートルほど隆起し、洲崎では70%の家屋が全倒壊するといった被害をうけました。震災後、軍需工場や兵器開発の拠点が次々に進出し、山を切り崩して新田部分を埋めるといった大規模な土地改変が行われることなり、景勝地八景は見るも無残な状態となってしまいました。その上、金沢周辺の海域は 1899(明治 32)年に軍事保護法・要塞地帯法によって写生や写真の撮影が禁じられ要塞地帯に指定されると同時に、写真や絵画まで検閲され、自由な発信が不可能となってしまったのです。観光地にとっては死活問題となりました。 

 昭和初期には湘南電鉄により鉄道が敷設され、平潟湾が埋め立てられ(関東大震災によって土地が隆起した為埋めやすくなった)分譲地として売り出されました。その折に南側入海の名称が「平潟湾」と地図に記されました。(六浦側は侍従湾と記述)そして、湘南電鉄が乙舳海岸に海の家を開き、海水浴客を集めました。泥亀新田は東側半分が蓮田として利用され、悪水だまりが釣り堀となり、地域住民によってよくウナギ捕りが行われて(水門が開くときには町中の人がうなぎとりの道具を持って駆けつけた)いました。君が先交差点から洲崎交差点までの道中にうなぎ屋が多くあり、「ウナギ街道」と呼ばれているのは洲崎の人にとっては身近な魚として食されていたからでしょう。 

 大正年間から昭和初年には追浜航空隊の基地として野島地先が埋め立てられましたた(埋立の土砂は室の木の山(天神山脈)を切り崩して運ばれました。現在の関東学院がある場所)。この埋立の為、平潟湾の潮通りが悪くなり野島の漁業に悪影響を及ぼしたため、昭和19年に乙舳を開削して運河を作りました(このため野島は縄文期以来の「島」となりました)。この運河は軍需工場(日本製鋼所)への物資の運搬の為でもあったため、軍による作業だったようです。終戦間際の大空襲の折にもこの地に焼夷弾の雨が降ることはありませんでした(米軍は工場や軍関係の施設を接収して利用しようとしていたため破壊しなかったといわれている)。しかし、富岡では駅付近に爆弾が落され多数の犠牲者が出ました。戦時中、洲崎の多くの人々は軍関係の職場に就職していました。そして、地方から赴任してくる人々のための下宿を営んでいる家も多くありました。そのため、敗戦は町の経済に大打撃を与えました。我が家でも代々受け継がれてきた土地が郡に接収され、全て戦時公債となっていました。そのため、祖父は戦後「呆けて」しまい職にも就けない程でした。父からは、「塩でもつくるべ」と製塩を始めたと聞かされました。

  戦後、再び海水浴ブームがおとずれ乙舳海岸には海の家が林立しました。洲崎や町屋でも海水浴客目当ての貸家が相当数ありました。町屋には東京都の臨海学校もありました。昭和30年初期の泥亀新田の蓮田は子供たちの格好の遊び場でした。

 金沢では明治23年に国道16号線が横浜から横須賀への海軍輸送のために海沿いに敷設されました。洲崎の街道は瀬戸橋から地蔵堂を左へ折れ、町屋へ抜ける道でした。この道は途中にクランク(枡形道路)があり、車道には適さないものでした。そこで、龍華寺の門前(南側)にあった広場に道を通すことになり、龍華寺の西南の角の土地を接収して、広場にあった洲崎神社(第六天社)を龍華寺側へ移動させて道路を通しました。そして、その先の瀬戸橋を利用するため再び90度右折する道路となりました。後にこの道路が大渋滞をひきおこすことになるのですが・・・。

いよいよ次回で終章となります。

 山本家については父、祖父、の代まで私の記憶にありますがその先、曾祖父以前は7代前までなんとか名前だけ調べることができました。その曾祖父が関東大震災の洲崎の被災状況について書き残したものがあります。実物は金沢文庫に収蔵していただいています。機会があればここでも紹介できればと思っています。

今回も最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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