まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

6月8日(土)講演会 名勝金沢八景の要「洲崎」の歴史②

前回から3週間経ってしまいました。

こんにちは。たまちょです。

この間、発表用のパワポの他二つのテキストを書き上げました。

ひとつは、

「金沢八景の景観を大きく変えた事象」

もう一つは

「鉄を制する者が天下を制する」

です。発表のバックボーンとして自分の考えや研究の方向性を確認することを目的に書き始めました。

一つ目のテキストは東京大学大学院新領域創成科学研究科 社会文化環境学専攻の坂手 久美子氏が修士論文として発表されている『金沢八景をめぐる景観環境史』をベースに景観の変化を現在を含めて4段階にまとめてみました。

 長いテキストになるのでまずはプロローグの部分から

金沢八景の景観を大きく変えた事象

 

基本的に金沢八景の景観が成立したのは鎌倉時代瀬戸橋が架橋された以降とします。

金沢八景の成立については次のように解説されています。

『“金沢八景”が成立したのは近世初期のことである。中世鎌倉時代から金沢の風景の美しさは人々を魅了していた。鎌倉幕府5代将軍頼経は1228(安貞 2)年 4月に六浦を遊覧しており、14 世紀初頭には兼好法師が来遊し一時は庵を構えていた。鎌倉後期以降、金沢には鎌倉五山の禅僧が度々訪れるようになる。彼らは金沢の風光明媚な風景を中国禅の拠点の一つ、杭州西湖と重ね、1327 年、北条高時の命によって鎌倉へ下った清拙正澄が六浦を訪れ瀬戸明神に献上した漢詩には、金沢の風景が杭州西湖と非常に似ている旨の詩を詠んでいる。近世に入ると金沢にも八景の風景観が齎されるようになる。『名所和歌物語』(1614 年刊、別名『巡礼物語』)(三浦浄心(1970))の著者・三浦浄心により紹介された金沢の八つの名所が、“金沢八景”の最も古い例と言われている。また、17 世紀に開版された古版絵図に“金沢八景”が配置された金沢が描かれるなどの試みはあったが、“金沢八景”の正確な位置を定めるには至らなかった。この流動的であった“金沢八景”を決定づけたのは、徳川光圀によって招聘された明僧・東皐心越である。彼は 1694(元禄7)年、故郷の杭州西湖と金沢の地を重ねた八つの詩を詠んだ。いわゆる「乙艫帰帆」、「小泉夜雨」「洲崎晴嵐」「称名晩鐘」「平潟落雁」「内川暮雪」「瀬戸秋月」「野島夕照」の八つの景観である。』

これが今日言われる“金沢八景”の原点であるとされています。

絵図を見ると瀬戸橋を中心に置き、橋で区切られた二つの入海がその景観を創り出していることがわかります。

Photo

 

二つの入海とは、瀬戸橋より北側の入海(瀬戸の入海)と南側の海(江戸時代には海としか記述されていない。後に金沢湾、平潟湾の名称で呼ばれるようになった)を指します。

 

どのようにしてこの二つの入海が出来たのでしょうか?

 

 この付近の地形は氷河期に古宮川、古侍従川の浸食により形成されています。二つの川は合流し、野島浜堤の下にあたる地形をマイナス40メートルまで掘り下げ、古東京川へ合流していました(約2万年前最終間氷期極相期)。その後の間氷期(縄文海進)に海水面が上昇するとともに二つの川から流されてきた土砂が野島浜堤の下に堆積し始め、古東京湾の海流の影響を受け縄文海進期には海面近くまで堆積が進んだと思われます。

 縄文海進期には現在の平地部分はすべて海の底になり、波が山肌を削り地表では海食崖を形成されていました(現在でも白山道の奥や瀬戸神社裏にこの地形がみられます)。この時期はまだ、古東京湾の入り江状態でした。その中でも、縄文人たちは波打ち際の微高地に集落を営んでいたのです。(称名寺貝塚遺跡や阿王ヶ台遺跡として確認されています。縄文早期の遺跡として夏島貝塚や野島貝塚などが確認されていますが、この時期縄文海進がまだすすんでいなかったため、二つの「島」は陸続きの山でした。)

 

弥生時代になると海面高度が低くなり、野島と北側の山が砂州(野島砂州)で繋がった状態で陸として出現(トンボロ)し、内湾の流路(特に古宮川)がこの砂州の南側に沿って流れ、古侍従川と合流して野島の南側を迂回して流れることとなった。この時点では入海は二つになっておらず、いわゆる、古平潟湾(この名称が妥当かどうか検証が必要である)と呼ばれる大きな入海であった。この流路の変更により、大川、走川より運ばれてきた土砂が野島砂州の西側に新しい砂州を形成した

 

(洲崎砂州)

 洲崎砂州の形成については弥生時代以降という見解がなされている(埋文よこはま43号)。この砂州を形成した土砂の堆積については二つの川から供給されたと考えられるのですが、島根のしっぽと呼ばれる広大な砂州とはくらべものにはならないのですが、その成因は同様であると考えてもよい条件が揃っています。

  境港の弓ヶ浜浜堤の約半分がたたら製鉄の原料である砂鉄を採取するために削り取られた土砂(真砂)の堆積によって形成されたという事例があるのです(NHKぶらたもり2022年8月放送)。私は、洲崎の砂州も同様の成因であると考えています。ここかねさはでも、砂鉄を多く含む地層(真砂)が存在しています。砂鉄の取れる地層は主として風化花崗岩の堆積層であるといわれていますが、この付近では「小柴層」がそれにあたるのです。小柴にある海食崖にこの層の露頭がみられることから命名されています。産鉄のためにこの小柴層が使われていることが下流域で土砂が堆積する必要条件となるのですが、はたして、釜利谷でたたら製鉄が行われていたことは宮川上流付近から「金くそ」が採取されていて、「かなくそ」という地名もあります。谷津の付近もこの「小柴層」の分布範囲にあり谷津川の上流で砂鉄の採取が行われていたと考えられるのです。地形図上でもその痕跡が確認できます。谷津付近の小字名に「片吹」「荻野」等の製鉄関連地につけられる地名が存在している。(釜利谷も製鉄関連地名)そもそも「金沢」の地名が製鉄関連地名であることは全国の「金沢」に共通しているところです。

  円海山周辺にたたら場があることはことは、上郷深田遺跡(たたら製鉄遺構)が発掘されたことによって証明されているのですが、円海山周辺特に東側山中で、小規模なたたら製鉄が盛んに行われていて、鎌倉幕府の重要な軍需物資である矢じりの生産拠点となっていたという仮説を立ててみました。矢竹の生産は現在の洋光台付近で行われていた(古くはこの付近は「矢部野」と呼ばれていた)。ちなみに洋光台には製鉄の神様である「金山神社」が鎮座しているのです。この一帯が産鉄地であったことは間違いのないことだと思います。

さらに、想像をたくましくすれば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのも北部山地に製鉄地があったからだと筆者は考えている。だとすると、伊豆に流されて再起を期す頼朝は20年間ここ金沢の地で協力者の元、砂鉄堀り・炭焼き・たたら場 といった「製鉄コンビナート」を秘密裏に作り上げ、当時の戦略物資である矢(現在のミサイル?)の生産をおこなっていたのではないでしょうか。いよいよ平家打倒に必要な矢数が揃ったため、伊豆で蜂起し、計画通り(何通りかあったであろううちの一つ)房総半島へ渡り、平家打倒が可能なだけの矢数が揃っている事を宣伝し兵力を集めて鎌倉へ入り(房総の産鉄状況を確認しに行った?)、宣伝が本当であることを坂東の武士たちに見せつけ、味方につけたという想像はいかがであろうか。

  話がそれてしまいました。この二つの入海に話を戻しましょう。これを形成した砂州を金沢砂州(松田磐余氏は洲崎と野島砂州が同時に出来たとしている)と呼称する場合もあるのですが、私は成立時期が異なると考えているため「洲崎砂州」、「野島浜堤」と分けて呼ぶことにします。

 さて、その「洲崎砂州」は入海を塞ぐように伸びていくのですが、干満の差による激しい流れのため、砂州の先端は湾口を閉じることが出来ず、瀬戸と呼ばれる潮の出入り口が形成されました。この時点で金沢八景の原風景が成立したと考えられるのですが、砂州は浸食を受けやすく景観は定まらなかったはずであります。

  この景観を固定したのが、瀬戸橋の架橋(1305年ごろ完成)です。この瀬戸に橋を架けるにあたって、橋の西側は古層が段丘状の海食崖となって安定した地層でなのですが、洲崎側は砂州であるので人工的な改変が必要で、護岸堤を築くことと、西岸との著しい高低差をなくすための土盛りをするなど、大工事となったと思われます。(ちなみに我が家の地下はこの場所にあたり、1995年のボーリング調査では表土より2メートルが埋め土となっている。瀬戸橋架橋については書物が今のところ見つかっていない)この架橋によって八景の風景が出現したのです。

  二つの入海が見せる景観について

 鎌倉時代以降海面変動が比較的少なかったことで、二つの入海は異なった様相を見せました。瀬戸で仕切られた北側の入海は土砂の堆積が進み、江戸期には干潮時に干潟となり、走川、宮川の澪が出現するほどとなりました。鎌倉幕府はここを殺生禁断の入海と定めていたため長らくそのおきてが守られていたと考えられます。一方南側に広がる入江(江戸期の地図には単に「海」と書かれています)とは上流からの土砂の流入量が減ったため、もともとリアス地形であった瀬ケ崎~六浦あたりに津が作られ、良港として利用されました。当然のことながら桟橋などの港湾施設が設置され、朝比奈の開削後は鎌倉への物資の集積地となり人家も多く建てられていました。洲崎の砂州上では物資の積み替え(内湾地域からの物資を小舟で運び、洲崎の先端に停泊している外海を航海する大型船に荷を積みかえるための場所となり、そのような場所には物資の売買をするための市がたって、賑わいを見せていたことは想像に難ありません。鎌倉幕府がなくなり、鎌倉府となり、その後戦乱に巻き込まれた時期もあったのですが、この二つの入江はひっそりと自然状態が保持されて江戸期の八景とつながっていくのです。瀬戸橋はその維持のために何回か架けなおされたはずですが確証を示す資料が未発見のため詳細はわかっていません。

 この二つの異なる入海を俯瞰できる場所(平安時代の絵師巨勢金岡がこの場所から風景を描こうとしたがあまりの絶景に筆を捨てたと言われている)として北側の山頂に「能見堂」(寛文の頃(1661~72年)に地頭の久世大和守広之が江戸の増上寺から子院を移し、地蔵菩薩を本尊として再興した地蔵院)が建てられます。歌川広重の「武陽金沢八勝夜景」において、その景色を今に見ることができます。徳川家康はこの景色を気に入り、江戸城中に「金沢の間」を作りその風景を襖に描かせている(実際に二度ほどこの地に訪れていることが書物に残されています)。 

  江戸時代後期にはいわゆる「金沢八景」の浮世絵が多く刷られ、大山参りの最終目的地として観光客が押し寄せました。岸辺には多くの旅館が立ち並び、六浦には赤ちょうちんが並んだと伝えられています。観光地として金沢八景の景色に瀬戸橋はなくてはならず、常に整備されていた(瀬戸橋は洲崎に属していたとの話もある)ものと思われます。洲崎と野島の間の干潟や六浦の干潟は塩田として利用されていました。

  干潟が出現する瀬戸の内海は鎌倉時代には殺生禁断の地として、保護されていました。そのため、手つかずの自然が残されていたのです。しかし、時代が進むにつれ土砂の堆積が進み、上流部(釜利谷)付近では陸地化するところが出てくるほどでありました。(こちらも後に塩田として利用されていました。)

 儒学者の家系であった永島祐伯が野島に移り住み、住居周辺(野島)の陸地化できそうな干潟を干拓して泥亀新田を作りだしたのを手始めに、永島家による新田づくりという大きな土地改変が行われ始めるのです。

初回長くなりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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