まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

私の履歴書~その5~YOKOHAMAげんきDo

「YOKOHAMAげんきDo」オリジナルソンググループとして出発

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 先ずは「歌づくり」である。私たちの先達は広島ざ・わたしたちというグループ(バンド)である。「歌は誰でも創れます」先ほど登場したこのフレーズは広島・県北総領町の甚六こと和田芳治氏のものであることは先ほど紹介したが、その彼が主催する県北レクリエーションカレッジでの「オリジナルソング創り」セミナーに参加したり、ざ・わたしたちを横浜に呼んで「オリジナルソング創り」を伝授してもらったりしながら、げんきDoのオリジナルソングが産まれ始めた。

 たしか毎週水曜日例会と称して山本宅に集まっていたように記憶がある。練習場所がほしい。山本家にはすでに二人の男子が誕生していた。子連れでバンド練習ができる場所なんてそうそうない。わけでもなかった。「恋心」のミステリーツアーで使ったことのある三浦のログハウスだ。ここなら合宿して夜通し(子供たちが寝静まった後に)練習できるのだ。しかし、一泊8万円也。YMCAがよく利用している施設でオーナーを探したところ野毛の「村田屋」の経営者であることを突き止め、ふぐ(村田屋はふぐ割烹料理店)を食べた後に直談判をして、毎月定期的に借りること、帰る時には原状復帰を条件に格安で練習場所の確保に成功した。

「WeCan丸太小屋時代」

 「げんきDo」は「タダで呼べるフルバンド」を目指し、自前のPA(音響設備)を揃えていた。この場所は駐車場が離れていて、片側が崖の細い山道を機材を毎回運び上げておろす。ベースアンプ、楽器、スピーカー、アンプの入ったケース等々。しかし、一晩中練習ができる環境が手に入ったのである。こんなことは苦労とも思わなかった。オリジナルソングのアレンジが進む中、ドラムのながさんが訪ねてきて即メンバー入りを果たした。ドラム・ベース・キーボード・ギターいわゆるバンド構成となった瞬間でもあった。その中で自分は高校軽音時代にNSPのコピーバンドでベースを弾いていたのでベーシストとして出発した。しかし、ベースの理論も知らずただただ耳コピで音を鳴らしていた人間にドラム入りのバンドのベースは務まるはずもなく、ほどなくしてボーカルパートと相成るのである。

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 アレンジされた曲が増えるにつれこれを発表して世に問うてみたくなるのは自然の流れである。また、そこを目標として練習というミッションも発生し、いよいよ熱が入ってきたのである。第一回目のコンサートは「げんきDo²コンサート」(げんきどうどうこんさーと)のタイトルで横浜市南区吉野町プラザホールにて開催。(1993年2月14日)ステージに9人(ながさんD、にこV、あっちゃんK、ぽんちゃんV、じっさんG、しおりV、くわさんV、きんたB、たまちょV)のっている写真が前掲した写真である。

 その年9月には「WeCanLIVE」と銘打って練習場所である「WeCan丸太小屋」でライブを行った。このグループは最初から全員で作詞、作曲(うたづくり合宿で、出来た詩を他の人に預けて曲をつけてもらうというスタイルが出来上がっていった)していたために多種多様な楽曲が出来上がっていった。(人にはNHKの「みんなのうた」みたいなラインナップです。と伝えている)これは30年たった現在でも続いている。もちろん、「うたづくり合宿」も毎年開催されている。

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