まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

私の履歴書ー③ー歌声クループYOKOHAMA恋心

歌声グループ「YOKOHAMA恋心」

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いろいろな小学校の音楽室をお借りして、歌う会を月一で開いていた。この会の発起人よっちゃんがレクリエーション指導者だったことから、そこにレクリエーション活動のテイストが加わり、その方面からも次々とメンバーが加わっていった。広島からあっこが横浜へ引っ越してきたことで、広島のレクレーショングループとの交流も始まり、グループ「YOKOHAMA恋心」が立ち上がる。1984年2月全面結氷した山中湖のペンション「サラダボール」に集まった仲間を中心に立ち上げられた。話が前後するが、横浜の若きレクリエーションリーダーたちが広島・県北に出向き、そのノウハウを学んできた。広島ではレクリエーション活動で創った歌を歌い、歌のサークルが日常的な活動を行っていることに刺激をうけたよっちゃんが横浜でも歌声のサークルを立ち上げたのだった。

 その中心人物であるよっちゃんに「あっこがよこはまの風景を詩に書いてくれたから曲をつけて歌にしたい」いっしょに考えてほしいと相談を持ちかけられ、あれこれ考えたがまとまらず残りはよっちゃんに託してその場は終了。楽譜には作詞:あっこ 作曲:よっちゃん・よっちゃんの弟 編曲:あっちゃんとなっている。ちなみにこのよっちゃんと私は玉川通信時代に出会い、面白そうなアイディアを次々と実行するために私を巻き込んでくれた恩人である。あっちゃんは後にわたくしのパートナーとなる女性である。できた歌が「Sing a Song」で「YOKOHAMA恋心」の

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テーマソングとなった。広島からやってきたあっこが学校レクリエーション活動を始めたトシと結婚することをきっかけに「結婚を祝う会」というイベントがスピンオフして出来上がり、二人を祝ってテーマソング、冊子をつくり、祝う会の企画運営をおこなった。そうかと思えば、よっちゃんが関内の喫茶店を借りたから歌声喫茶をやろうということになり月一で始めて、大勢の人を集めた。1984年5月から1986年4月まで続いた。

いわゆる「歌声喫茶」は毎回来客が増え、限界を迎える。その後、広いホールでの「つどい」という形に移行していく。磯子会館の「梅林・かもめ」が定番となって、広島からヒューマンソンググループざ・わたしたちのリーダー奥田裕子さん、玉川大学小学部の小宮路敏先生、シンガーソングライターの黒田正文さんなどなどにもご出演願った。みんなで歌う楽しさ、歌を伝える楽しさを原動力として、余暇の時間をすべて費やしていった。横浜博(1989年)のはまっこステージに出演が決まり、「YOKOHAMA恋心」というグループで舞台(野外ステージ)にもあがった。そのほか、歌声キャラバン隊、スキーツアースピンオフ企画が目白押しとなった。次によっちゃんは「今度は親と子のふれあいサマーコンサートをホールでやろう。実は、もう赤い靴劇場をとったから。」とのたまわり、毎年夏休みのコンサートも恒例となった。しかし、今振り返ってもすばらしい青春群像である。

グループが大きくなり、頻繁にイベントを作り出していく中で、自分は歌がイベントの手段となってしまっていることに違和感を覚え始めた。活動を共にしていた仲間にも同じような想いをいだく人が現われていた。「バンドで歌だけを純粋にそれもオリジナルソングで」と考えたメンバーが広島でバンド活動をしているざ・わたしたちのコンサートをのぞきに行った(私は日程が合わず参加していない。あっちゃんが参加)。メンバーは帰るや否やバンド活動への準備を始めていく。当然のことながら私も参加した。

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