まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

私の履歴書その2

玉川大学(通大)期 

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通信教育はテキストを勉強してレポートを提出、その後筆記試験を受けそれを合格して単位が取得できるというシステムだった。その中で大学が夏休みになる期間にスクーリングという集中講義がキャンパスを使って行われ、文字通り「集中」して単位を取得できる機会が設けられていた。玉川学園は生活のあらゆる場面に音楽が存在する。いわゆる生活音楽の実践がなされていた。「愛吟集」いつどこででも歌い始められるようにカバンの常備品となっている。小学校の教員になれば日々歌い暮らせる楽しい毎日が待っていると思い、絶対に小学校の先生になるんだと決意を固めた。スクーリングの閉校式には「第九」を歌うということでその練習が放課後に用意されていた。そして、クラブ活動の様に合唱指導という課外活動があり、授業終了後18:30ぐらいから丘の上のチャペルで自分が小学生にもどって歌を楽しむ歌と共に一瞬で小学生に戻る訓練を繰り返したのであった。

教員採用試験

当時、横浜市の小学校採用試験には足踏みオルガンを弾きながら課題曲を歌うというなかなかハードルの高い科目があった。課題曲の中で一番難関な「もみじ」を選択(間違えても言い訳が効く?)。一番を歌い終えたところで、試験官が「はい結構です。」とのたまわった。いやいやこの歌は2番まで歌いきってこそ「もみじ」の情景と詩情が表現できるのにと思い咄嗟に「2番もいいですか?」と懇願。驚いた試験官の顔が忘れられない。

教育実習

いよいよ玉川で学んできたことの実践である。とにかく楽しかった。何をしたのかよく覚えていないが本当に楽しい実習であった。指導案やプリントはすべてガリ版(謄写版印刷-ロウ原紙の下にやすりを置き、鉄筆でガリガリと字を書くのでガリ版と呼ばれた)この実習のお別れの挨拶に壇上で歌った。生活音楽は喜怒哀楽、出会い、別れ、朝に夕にすべて「歌」とともにあるという生活音楽の実践者として小原国芳氏の「全人教育」をめざした。(これ以降すべての学校を離任するとき歌うというスタイルが定着する。)

小学校着任

待ちに待った小学校勤務。「朝歌で始まり帰り歌で終わる」歌うクラスづくりに励んだ。と同時に玉川での合唱指導があまりにも楽しかったので、自分たちで歌の会を作って活動を始める。1983年9月にスタート。時を同じくして学校レクリエーション活動に出会う。レクリエーションの概念を打ち破るべく広島県北で雄たけびを上げた和田芳治曰く、「うたは誰にでも作れます」そして、オリジナルソングを歌う広島の人々からノウハウを仕入れ、学校レクリエーションセミナーの中でオリジナルソング創りに挑戦。クラスで歌えるオリジナルソング「おはよう朝だ」「夕焼けさようなら」ができた。これが歌創りの始まり。オリジナルソングが出来上がるまでの道のりは長く、私は27歳にして歌創りを始めた。

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