まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

音楽スタジオ付きの家をつくる その1

こんばんは山本宏文です。

今日は20年前に自宅に作った音楽スタジオについて書こうと思う。

Img20210624_21322971_2

先日、知人から防音室を作りたいので施工業者を紹介してもらえないかという話があった。ちょうどいい機会だから書き残しておくことにする。話すと3時間以上かかる物語。きっと長文になります。

「うーん。施工業者って。」言われてもなあ。
うちの場合。一言で言ってしまえば設計士さんにお願いして設計して、大工さんが施工した。ということになるのだが。

 茅ヶ崎の建楽(けんがく)設計事務所 設計士は三澤護氏。
 追浜の松沢建築。棟梁の父親と三人の息子たち。
 それと施工が始まってからコンサルしていただいた音楽スタジオ設計のプロ。
 そして能天気な建主の物語

 1995年南隣に4階建てのマンションができて、私の実家(大正年間に建てられた総二階建ての純日本家屋で、玄関の横には西洋館があり、二階は周り廊下という旅館か料亭の風情があった。ご先祖様は江戸から明治にかけて、ここで旅籠を営んでいたようだ)に太陽があたらなくなってしまった。

 この母家(と呼んでいた)の後ろに結婚した時に建てた一軒家(老後の生活はこちらで・・・。という目的もあり母親と奥さん、奥さんのお母さんの三人で設計した)に私たちは住んでいた。二人で住むには十分だったが子供が一人増え二人増え三人となり、リビングでは嫁入り道具のグランドピアノの下にチェストを置き、狭い空間で暮らしているような状態であった。そのため、二人の男の子はケンカが絶えず、奥さんは辟易としていたところにマンションができたのである。

 建て替え?ってそのための資金もゼロの状態ではあったが、一軒家を建てた職場の後輩から「今、公務員ならいくらでもお金を貸してくれるから、貯金ゼロでも家は建てられますよ。」の一言で家づくりが俄然現実味を帯び、ハウスメーカーの展示場巡りが始まり、奥さんは住宅雑誌の切り抜きをせっせとファイリングして理想の我が家(東急ミルクリーク調)を思い描いていた。

 私たち夫婦と友人で1991年に「げんきDo」というバンドを結成して演奏活動を続けていた。毎週のように子供を連れてのスタジオでの練習。幸いなことに後半は子供を預かって遊ばせてくれるスタジオに巡りあい、なんとか凌いでいた。が、メンバーが結婚して子供ができた日にはこんなことは出来ないだろうと考えるとそこで活動停止?になることは目に見えていた。そこで、家づくりに「スタジオ」が登場する。その上、一生死ぬまで音楽を楽しめる。「音楽スタジオ付きの家」の建築がテーマとなったのだった。

運命の日 1995年6月24日

 こんなテーマを解決してくれるような家は住宅展示場にはあるはずもなく、暗礁に乗り上げそうになっていた時、「あなたの理想の住宅つくります」というラジオのニュースが耳に飛び込んできた。首都高速湾岸線根岸付近で。連絡先をメモろうとしてスタンバっていたが空振り、帰宅後妻に報告したところ、「そんなこたぁ放送局に問い合わせればいいことじゃん。」と一喝され、放送局に電話して連絡先をゲット。それは「ヨコハマ住宅倶楽部」という設計士さんと家を建てたい人のお見合いの会であった。

 「230新聞」という地域新聞を発行している事務所に行くと、いわゆる設計士さんたちが待ち構えていた。「どんな家を作りたいのですか?」「スタジオ付きの家を…」と言った瞬間設計士さんたちの目がキラリンと光った(ように感じた)。こんな家という夢を話すとたちどころに絵が描かれていく。これはいける。と確信した。確か三人ほど設計士さんが聴いてくれていたと思うのだが、お見合いを主宰している佐藤さんは「この中から気の合いそうな設計士さんを選んでください。」とのたまわった。設計士さんごとのファイルが用意されていて、建てた住宅の写真を見ることができた。その上、各設計士さんが作った家の見学会も用意されていたのだ。

 「スタジオ付きの家」づくりは一気に加速。見学会ではどの家も建主さんの理想と工夫が詰まっていて楽しかった。妻は常々「東急ミルクリーク調」を標榜していた。当然その外観に近い設計をする設計士さん推し。私は関東学院大学の建築科を卒業しているという縁ある設計士さん推し。その上、内川橋のたもとにあるディーラーの営業所を設計したということも聞き、地面の下も知ってる人だと思っていた。決め手は設計士さん自らが設計したローコスト住宅がテーマ(渡辺篤の建物探訪にも出た)の自宅を見せていただいたことだ。忍者屋敷と形容してもいいような奇想天外の仕掛けが詰まっていた。楽しい家づくりがスタートした。

とこの辺で-その1-としてひと区切り。続きます。

コメント

  1. 三澤護

    2021年6月25日 (金) 08:37

    昔を懐かしく思い出しました。初めての音楽ホールワクワクした記憶がよみがえります。
    長い難しい楽しい道のりのはじまりでした。
    施主が諦めず性善説で考える事に助けられた設計、監理の時でした。
    設計者は一回設計する機会があれば経験者、その後音楽ホールを大小5回位設計する機会に恵まれました。

コメントを投稿

  • 名前

  • メールアドレス

  • URL:

  • コメント: