そもそも産鉄民とは
2021年4月10日 (土)
おはようございます。山本宏文です。
「産鉄民の声が聞こえる」その2です。
「産鉄民」と検索してみると
柴田弘武「風と火の古代史 ~よみがえる産鉄民~」彩流社
という本がヒットする。
レビューの一部を紹介すると、
「産鉄民」とは,遠い昔に鉄をつくる技術をもっていた人々のことです。農機具や武器を作る技術は古代では秘儀ともいえる貴重なもので,権力の行く末を左右できるものでした。そのため,大和王朝に先立って日本各地に土着していた産鉄民は,征服されたり抑圧されたりし,古事記や日本書紀に表立って扱われなかった歴史の闇のような存在のようです。本書は,そのような産鉄民の足跡に地名や伝説をたどって迫ろうというものですが,産鉄民と「風」とが密接な関係にあったことがたいへん興味深いです。
古代日本の製鉄技術は「タタラ製鉄」と呼ばれます。
土中から掘り出した鉄鉱石や川からすくいとった砂鉄を炉にいれて,ふいご(吹子)で風を送り続けながら,鉄を作るのですが,その作業は三昼夜連続して行う,過酷なものだそうです。製鉄のプロセスには炉内の温度管理が必要で,ずっと炎を見続けるために,長年この仕事をしていた人たちの多くは失明してしまいます。鉄を作る神様が片目なのは日本に限りません。「一ツ目小僧」というお化けも産鉄民に由来している,と著者はいいます。
三日三晩,炉に風を送り続けることもたいへん重要な作業です。多量の風を送り込むために足ふみ式のふいごが使われました。歌舞伎の「たたらを踏む」という片足跳びの動きもタタラ製鉄から来ているそうです。日本各地に「ダイダラボッチ」という大男の伝説があって,ダイダラボッチが踏んだ足跡が池になった。などといわれていますが,「ダイダラボッチ」もタタラにつながる名前で,そういう伝説があるところは昔製鉄が行われていたところである,と著者はいいます。
「産鉄民」という言葉は、筆者の造語とも思えるのですが、古代から近世までたたらで鉄を作っていた人々を「産鉄民」と私も呼ぶことにしました。
製鉄の原材料は砂鉄と炭です。「砂鉄7里に炭3里」と言われます。鎌倉に七里ヶ浜という地名はこの言葉が関係しているのでしょう。確かに海岸には砂鉄の砂模様がありました。砂鉄というのは風化花崗岩で構成された地層に多く含まれています。海岸の砂遊びで、磁石を使った覚えのある人もいるでしょう。その時、砂に磁石を入れた時にくっついてくる砂つぶのことです。山から流れ出た砂鉄が波によって海岸に堆積したものです。私の実家は金沢八景で海水浴ができる乙艫海岸、野島海岸どちらとも砂鉄が縞模様となって浜辺へ打ちよせられていました。
たたら製鉄は菅生たたらに代表される奥出雲が有名です。このあたりは鉄穴地形と言われるように地形が変わってしまうほど山を削って、その土砂を川に流して比重選別で砂鉄を得ていました。水の得やすい谷筋を掘り進んで行き、掘り終わったところを整地して棚田が作られていくのです。奥出雲では仁多米と呼ばれる美味しい銘柄米が作られています。鉄分が美味しいお米を育てていると私は勝手に思っています。
私も子供の頃海岸に磁石を持って通った記憶があります。「産鉄民」の声と接近遭遇していたのですが、その声が聞こえ始めたのが、もう20年ほど前になりますが、岩石の図鑑の中に「砂鉄で鉄を作ってみよう」というコラムに採集してきた砂鉄にアルミの粉を混ぜて花火で点火してたたら製鉄の実験ができると紹介されていました。当時私は工業高校で教鞭をとっていたため、意外と簡単に?アルミの粉を調達することができたのでやってみようと思ったのです。結果は砂鉄を溶解することはできて、黒い固まりはできました。しかし、「製鉄」には至りませんでした。
その後、浜辺の砂鉄がどこから来たのかが気になり色々と調べ始めました。すると、古代の製鉄が謎に満ちたものであることが徐々にわかってきました。「産鉄民」が私に話しかけ始めたのです。
本日も長文にお付き合いいただきましてありがとうございました。
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