まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

八ヶ岳

~縄文の詩~④


柳生博さんがお亡くなりになった。
八ヶ岳の雑木林を再生させた地に「八ヶ岳倶楽部」と名付けて住われていた。2度ほど訪れたことがある。カフェで談笑している柳生さんをみたことがあった。
ご冥福をお祈りしたい。

 八ヶ岳山麓は縄文遺跡の宝庫である。縄文土器にはどう考えても実用にはそぐわない文様が装飾されている。私たちは土器というと何かものを入れる器と考えてしまうのだが、この土器を作った人たちは土器を作ることが目的で器としての機能は二次的なものではなかったのだろうか?と思ったりもする。確かに最初の土器は尖底で土器の表面には縄文しか施されていない。これは実用(入れ物、鍋等)を目的として作られたと考えてもいい。そこから縄文時代は8000年も続くのである。8000年という長さを考えると土器だってなんらかの進化を遂げているはずである。文字の無い時代が8000年(弥生時代も含めていいはず)続いたのである。コミュニケーションにはなんらかの言語が存在したはずで集落の中で日常的に使われていたであろう(共通の言語を記録する文字が出来上がっていても不思議ではない時の長さだ)。人が文字を使い始めたのは記録を残すためである。中国で言えば革命によって新王朝ができるとその正当性を文字で記録する必要があった。おそらく日本では記録の必要性がなかったために文字を作らなかった。文字が日本に輸入された時には万葉仮名と呼ばれるような自分達のしゃべる言葉の音を表すために利用された。音がすべてだった。おそらくメロディがついていたであろう。


 土器に話を戻そう。


 考古学において土器は年代測定の指標(編年)として用いられてきた。そのためほぼ全国的に同じ文様形式を持つ土器には最初に発見された遺跡の名前が付けられている。夏島式土器、野島式土器、称名寺式土器、加曽利式土器、勝坂式土器などなど。同時期に同じような土器が作られたという前提である。流行ということになるのかもしれないが、誰が広めていたのであろうか?同時多発的に同じ文様形式の土器が作られるとは考えにくいのだが、編年という作業に土器を用いたことで土器の持つ本質が見えにくくなった。
 そんな土器の中で特殊な存在として存在しているのが「土偶」だ。土偶は編年の縛りから解き放たれている。その証拠に「縄文のヴィーナス」だの「仮面の女神」だの「遮光器土偶」など個体に自由に名前が付けられている(これを形式として編年が作られてはいるが)。
 こと八ヶ岳ということであれば、菜畑遺跡(茅野市)出土の「縄文のヴィーナス」中ツ原遺跡(茅野市)出土の「仮面の女神」が両横綱といったとこであろう。今回北杜市で出会った土偶は金生遺跡(北杜市)から出土した摩訶不思議な姿をしていた。なんと名付けて良いものか誰も浮かばなかったらしく無名であった。私としてはこの個体は土偶ではなく「土器」として捉えた方がしっくりいく。お酒をつぐ徳利というのはいかがであろう。しばしご観覧を。

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