まんぼうひまなし

たまちょこと山本宏文の いま伝えたいこと。

6月8日(土)講演会 名勝金沢八景の要「洲崎」の歴史⑤

こんばんは、たまちょです。

いよいよ講演まで2週間となり、主催者の方からレジュメ提出の連絡が来ました。

最終回です。

第三変革期

 この渋滞の解消は行政にとって喫緊の課題となり、泥亀新田(入江新田)にバイパスを建設する構想とともに新田の全面的な開発計画である八景団地造成計画が昭和37年に横浜市計画局より発表され、新田の埋立てと造成が開始され、昭和41年に完成します。

Photo泥亀新田の開発「八景団地造成計画」と命名

 国道16号線の渋滞は解消され、近代的なニュータウンが出現し、公務員住宅、当時「全長が東洋一のショッピングセンター・サニーマート」や下層部に商業スペースをもつユニオンセンターも建設され、金沢区の中心街として姿を変えました。
 この時期、自然豊かな校外に住み、都心へ 通勤するという生活スタイルが確立され、横浜の南部地域が次々と大規模開発されていき、釜利谷の西に広がる山林地帯や称名寺一帯の山が宅地へと変貌を続けました。

 日本製鋼所の跡地にダイエーが日本に3店舗しかない「プランタン」を開業したことは地元民にとって驚きでした。このスーパーはのちに「ダイエー」そして現在は「イオン」となって営業されています。

 その後、昭和50年代の東部臨海部の開発は工業団地を作る目的で海の埋立てが開始されると同時に谷津地区の山地にニュータウンとして能見台(開発前の駅名は八津坂(やつざか)という新しい地名がつけられた。

 金沢地先埋立て事業は昭和40年に計画が発表されました。釜利谷開発地域の土砂を埋立てに利用。能見台地域の土砂は海の公園造成に利用。山地の開発で出た土砂を埋立てに利用するという循環が出来上がり、開発に拍車がかかりました。山が削られ、海が埋め立てられるといった形で金沢八景の景観は変革と言うよりも変貌をとげたのでした。

現在も続く景観変貌

 現在では大規模開発は姿を消しましたが、初期開発時の建物に耐用年数がきたり、耐震基準を満たせなかったりといった原因でサニーマートの建物が三分の一になりました。総合庁舎の建て替え、公会堂の建て替え、金沢八景駅および周辺の再開発、円通寺客殿が復元されて周辺を含めた公園になるなど日々景観が変化しています。

 江戸期の景観を残している場所は非常に少なくなり、瀬戸神社、および弁天島、千代本のある一角だけになってしまいました。

 新金沢八景なども考えられましたが、ここまで変貌させてしまった景色に魅力はなくなってしまいました。景観そのものが文化財であった金沢八景をせめて資料として博物館に保存伝承していかなくてはいけないと思います。現代に生きる私たちの使命であると考えます。

 P.S.長浜検疫所に残る一号停留所が現在地より海の公園バーべキュー場への移設が決定されました。明治期の文化遺産を現状保存できなかったことは残念ですが、金沢区に残された文化遺産として大切に守って行きたいと思います。できれば行政主導の計画ではなく区民主導の計画がつくられることを望んでいます。

かねさは郷土資料館が必要です。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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